宮崎学VS上祐史浩1

6年前のオウム解体という本だが楽しく読めた。

TVの中で見ていた軒昂さも影を潜めた 上祐の冷静さ知的さは感じられる。
それに引き換え宮崎学はまさにオウムの運営に対してジャッキくれてる(笑
宮崎の反体制主義はいわゆるアウトロー論であり 合議制を標榜する上祐とは
水と油である。しかし立ち位置が違うだけでどちらも合理的なのである。
言葉の端々から知性を感じられることはあるが こんなに稚拙だったのか上祐。

終始エラそうに大人が子供をバカにして話しているよう上祐に対する宮崎。
いまの若い人は威張る人を毛嫌いするし 自己責任において犯罪を肯定する宮崎学
よく2chあたりで叩かれないなとちょいと探すが見当たらないのも不思議。見落としかね。

当時 松本から始まり地下鉄サリン破防法適用のニュースまで連日お茶の間を
騒がしてきたのは衆知の事実だが やはり上っつらばかりで実情は理解しては
来なかったのだなと。物見遊山にサティアン見物とか行ったもんω
「♪わぁたぁしぃはぁやってない〜けぇっぱぁくぅだ〜♪」は笑ったし。

結局麻原という人は一体何をやりたかったのかは誰にもわからない。
宗教の理想と現実とのギャップも。
巻き起こした数々の犯罪も 目的がさっぱり明確になってはいない。

金儲けは良くないだとか犯罪はいけないとか(こんなのいちいち声高に言うような
偽善の塊みたいなバカどもは今でもあちこちに生息している)だけど夢だけは一杯。
そんな子供たちの集まりだったのだなオウムって。ひろゆきマンセーチャネラと大差はない。
大きいゆえに識者もいるからまだしも 子供の集まりだけでは2chも宗教たりうる。

2chに限らず以前の黄色いとこも多分にその要素があった。
誰かにマンセー誰かに依存。自治能力もありゃしないってヤツだ。文句も誰かに。
3人寄れば政治が生まれるとは言え 今にして思えばあまりに幼稚極まりなかった。

何かに依存して生きていかねばならないのはわかる。
言い方は適切ではないが 社会人なら会社に寄生するとかニートなら親に寄生するとか。
それは宗教でも大差はないわけで 何かしら自分の所在をどこかに位置づけていないと
不安なのだろうし生きていくのは大変だってのは解る。
ただ自分は自分で守り決定権は自分にあるのだと当たり前のことが解っている人が
どれほどいるのだろうか実際?ってことだ。

イイ人ぶるのは結構。偽善も結構。そんなヤツラほどタチが悪いというのは私も宮崎と
まったく同じ想いだ。