ピーターフォーク逝去とジョンカーペンター

タイムリーにCSで「白鳥の歌」をやってたので見た。
前科者でロリっぽい女好きなカントリー歌手が年上の女房を殺す話。
コロンボのお話の性質上もあるが特に今回のあらすじは鼻ほじって見てても簡単。

実際この人は映画俳優としては大成しなくてコロンボで財をなした人。
後には主演以外のクレジットに載るように製作にも手を出したのよね。
それが好評だったか不評だったか(押してしるべしだろうけど)後になるほど
コロンボはつまらなくなっていったなぁとは思う。


そこでこないだから読んでたジョンカーペンターの「恐怖の詩学(THE PRINCE OF DARKNESS)
「透明人間」のときに チェビーチェイスとはミスキャストもいいとこだなぁと見てたのを
思い出すけど なーんとチェビーチェイス自身が自分のイメージチェンジのために小説の
映画化権を買ったせいだったそうな。道理でと今更にして膝を叩いた。


日本ではピンと来ないけど ハリウッドでの出演料は日本の比ではないわけで
そりゃ役者自身が金にまかせて出来る選択肢も増えるんだなぁと。
日本でも誰か忘れたがいたなぁ。でもやはりメジャーな話じゃないんだろう。


カーペンター曰く「40年代のスタジオシステムが機能していた時代に連れていって
映画を撮らせてくれ」と。
独裁者のような権力が誇示されていたが撮影所のトップたちは映画を愛していたと。
今では映画ビジネスが様変わりしてしまったと。契約に縛られ首もあった。
今ではいざ雇ったら首にはできず むしろやられ放題やられると。
スターが力をつけすぎて自分のセリフすら書きなおすと。
ケビンコスナーみたいに編集しなおすやつさえいるんだと。
そのせいかな いつからかケビンコスナー見なくなったもんね(クスクス


こないだから東映東宝の話も読んできたが まさに東映のスターシステムみたいのが
映画をダメにしていくのと同じようなことなのかなぁと思ったり。
東映のアレはアレでまだ監督達が権力を持っていたけど 実際今の若手監督が
松方弘樹クラスに言えるかといえばNOだろうし ショーケン詐欺事件みたいなのもあったし。それゆえに役者側の器が試されるって見方もアリだろうけど。
そう考えると東宝のシステムの方が作りやすかったのかなぁと。
それもこれも昭和の話ではあるけどさ。


そこでコロンボに戻るのだが日本でNHKでの放映当時から見てきたけれど
面白いけど面倒臭いというか。とにかく冗長なのだね。長い遅いくどい。
つまりはそれだけお金を掛けられたということなのだなぁと。
こないだローズマリーの赤ちゃんも見たけど長すぎてブチ切れそうだったもんw
いまあれだけの尺を繋ぐにはもっともっと緩急をつけるだろうしそれだけ
脚本の経費が上るだろうから質の悪い作品となりがちなんじゃないかと。


贅沢な時代に贅沢に映画を見れるのに貧相な作品が目白おし。
やんなっちゃう。。。
懐古じゃなくとも昔の映画見てた方が面白いのが自分には実情。
コロンボはやはり「別れのワイン」のプレザンスおじちゃん最後のセリフが好きかな。
スピルバーグは凡作だったり ジェイミーリーカーティスがウエイトレスで出てたのあったり。
あと子役(小娘)の出るのが2本ばかりあったな。両方好きじゃなかった。


まぁコロンボは息の長い作品となってくれていつでも見れるから焦らずまた。