ライフイベント

人生の節目を想定しながらライフプランを立てるという商売もやってきたが
自分となるとこれから定年を迎えるわけでもないし 子供が独立したり孫ができたり
なんてことすらあるわけでもなく 己の老後と死を考えるだけかと。
両親の死というイベントも想定してこなかったわけではないが 父親の死亡後
ここまで生活を乱されるとは思いもしていなかった。

想定外の事実が続々と判明し その対処に追われる生活は継続中。
やむを得ず実家の電話も郵便も転送したのが運のつき。
朝から晩までロクでもない電話で日常を中断される。
ロクでもない郵便物の処理に腸が煮える。紙ゴミも増える。
不愉快極まりないことばかりで 久しぶりに眠れない夜である。
もうどうしたものかと。なんとかするしかないけどさ。これからが本番だしな。
弱音のひとつも吐きたくなる。「パトラッシュ 疲れたよ もう」

実家の書類整理をしていたら私が16のときに父親に書いた手紙が出てきた。
よくも取ってあったものだ。取ってあったことすら覚えてないだろう場所にあったが。
自分で自分が可哀想になった。当時から母親への憎しみを書いてはあったのだが
気を使って原因は一切書いていない。今の自分が読んでもまどろっこしい。
そして思いやりも想像力もない父親に行間を読むことは不可能で 到底理解など
得られるわけがないのである。無駄な努力だなこの手紙。。。と思った。

私は物心ついてからというもの ただの一度も母親を「おかあさん」と呼んだことはない。
それ以上も以下もないそれが事実。
何故なのか他人には理解できないだろうし まぁされたからってどうにもならんが。

自分の親を「おとうさん・おかあさん」と呼べる人は親孝行してさしあげてくださいと
しみじみ思う。結果的に私のしていることも親孝行以外の何物でもないが。
これで「母が一人では心配で」とか言ったら 自分の懐も心も痛めなくたって
親孝行ね〜とか言われるんだろうな。言われたくもないけど。

小娘の頃から結婚したらダンナさんの親御さんに甘えて親孝行するのが夢であったが
今となっては叶わないから夢なんだな〜と これまたしみじみ思ったりする。
次のライフイベントが来ない限り 自分に平穏は訪れることはないだろう。

いろんな事柄やトラブルもあったり 未来に不安がないわけではない。
でもなんとか越えるものは越えてやっと穏やかになってきたのに好事魔多しってヤツか。