土屋賢二のオハナシ

どこぞの大学の教授だ。
相容れない部分も勿論あるが 概ねモノに対する目線が似ている部分が多く
共感することも多い(まぁ彼も毒舌家だしね)
久々読んだら 最近の私の想いにクリーンヒットであった。

「私は人を信用しない」というオハナシ。
まったくもって同じ意識なのだ。特にイイこと言う人は信用しない。
常日頃 私が忌み嫌う「おためごかし」のマヤカシだ。そんなオハナシ。

「そんなことないわよ〜♪」等に散見される共感的理解とでも言おうか。
それは共感的理解「ぶってる」に過ぎない。人間は本当のこと 特にヲトナに
なると 相手に対して否定的なことは言わない。
これは二つあって ひとつは「君子危うきに近寄らず」モード
もうひとつは「否定的なことを言って相手が自分の正当性を顕示してくるのが判る」
というものだと思う。後者の場合うっかり言うと甚だ面倒なコトになる。
まぁまったく他人さんのコトなんざ興味はござんせんモードもアリだろうがw

なんせそういう人は「自分が正しい」ことが根底にあり 悩みを打ち明けたり
同意を求めることに「自分の正当性を認識させ且つ確固たる自信に繋げたい」だけだ。
そういう「折れないココロw」を持つ御仁に限って そういう行為を求めがちだ。
そして同意してくれるような人に求める。安寧を崩される人には言わないのだ。

「エライ」と言うのは蔑視的単語であると。
私が誰かに「その棒拾って?」と言われ拾ってあげたからと言って「エライ」とは
言われない。
犬や幼児に同じコトを言い 同じ反応を得れば「まぁエライねぇ」となる。
ルノワールに「絵がウマイねぇ」と言わないでしょう?と言うことだ。
一流コックがうまいもの作っても「エライねぇ」とは言われないことだ。
期待していないことについて それ以上の反応を導き出すからこそ「エライ」となると。
目下の者に対する言葉であると。まぁそんなようなオハナシであった。

親ですら信用できない私が他人を信用するのはヘビーなことである。
しかしだからこそ信用できる人を見極める目がついてきたのはいずれにせよ功罪。
別に「内緒話を言っても言わない」なんて低レベルなことでもないし。

自分の「想い」を人に確かめねばならぬような愚行をするほどバカではない。と思うw
100人の同意などいらない。苦言を呈する1人の友がいればよい。
そんな友が1人だけではない私はシアワセものだなと思うのである。